傾城塚はお吉供養塔 ハリスに仕えた西山助蔵建立、幕末研が解明

下田版 2017年03月21日

祠に収められたお吉の供養塔(石仏)を示す杉本さん。右側の塔は、室町中期の塔「宝篋印塔」=下田市高馬
祠に収められたお吉の供養塔(石仏)を示す杉本さん。右側の塔は、室町中期の塔「宝篋印塔」=下田市高馬

 ■27日、成果発表

 幕末下田開港の悲劇のヒロイン「唐人お吉」(斎藤きち)の新たな供養塔の存在が近年、「幕末お吉研究会」(杉本武代表)の調査・研究で明らかになった。下田市高馬の旧下田街道沿いに建つ「傾城塚(けいせいづか)」で、少年時代にハリスに仕え、お吉の実像を知る西山助蔵(1842~1921年)が建立した。同研究会は、27日に2年ぶりに公開されるお吉ゆかりの「安直楼(あんちょくろう)」(同市三丁目)で、研究成果を発表する。

 傾城は、美人や遊女の意。県教委発行の「静岡県歴史の道『下田街道』」では、室町中期の「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」の通称とされる。同研究会は、その隣の小さな石仏がお吉の供養塔で、お吉をしのび「傾城塚」の名が付いたと考えている。

 街道沿いには稲生沢川が流れ、自殺か事故か不明だが、お吉の水死体は、この高馬の淵で見つかったとされる。

 今回の調査は、杉本代表が1992年12月発行の郷土誌「下田帖」28号を目にしたことが発端。元下田市立図書館長の前田実氏が「斎藤きち外伝」として、お吉が亡くなってから約20年後の1911(明治44)年に静岡民友新聞(静岡新聞の前身)に掲載された記事「米公使の外妾 下田小町の墓」を紹介している。記事は「稲生沢川のほとりに苔(こけ)むした墓石がさみしく建っていて、村人は傾城塚と呼び、墓の由来を詳しく知る人はいない」と前置きし、お吉の生涯をつづっている。

 この記事から半年後に東京新聞の前身である都新聞に「洋妾(らしゃめん)物語」というタイトルの小説の連載が始まった。その小説は1913(大正2)年に「薔薇娘」とタイトルを変え書籍化されている。著者の名は大阪出身の信田葛葉(のぶた・くずは)。

 杉本代表は、静岡民有新聞の記者と信田は同一人物で、取材元は「助蔵ばなし」として周囲にお吉の話を語っていた西山助蔵と考えている。

 薔薇娘の最終章「唐人お吉の墓」は、静岡民友新聞の記事と酷似しており、冒頭から登場する助蔵についての記述は詳細で、しかも玉泉寺時代の内容は関係者でなければ知り得ないことが散りばめられているためだ。

 その最後に「縁の深い助蔵などもその施主の一人で、河津と高馬の間の叢(くさむら)に一基の墓を建てた」とのくだりがある。文中の「河津」は「河内」の誤りか、下田の地理に不案内だった信田の勘違いと考えられる。

 こうした研究を基に杉本さんは3年前、傾城塚を探し当てた。地主に由来を話すと、大変感激された。野ざらしで荒れ放題だった場所は現在、立派な祠(ほこら)があり、花が絶えない。祠が建ったのは一昨年12月22日、奇遇にもお吉の誕生日だった。

 杉本代表は「地主さんや地域の人々が由来を知り、丁重に供養してくれていることがうれしい。この話を50年、100年先まで伝えていってほしい」と話している。

 安直楼では、同研究会がまとめた傾城塚を含む「斎藤きち伝『安直楼始末記』」を、公開当日の27日に限り税込み千円(定価1500円)で販売するほか、会員が新たに分かった史実を解説する。午前10時~午後4時。

 【写説】祠に収められたお吉の供養塔(石仏)を示す杉本さん。右側の塔は、室町中期の塔「宝篋印塔」=下田市高馬

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