熱視線=伊豆南西部の大蛇伝説を検証(下)祖父から伝え聞く

2019年03月31日

祖父から大蛇伝説を聞き書きした「当区ノ伝説・言レ」を手にする和泉信一さん=松崎町小杉原の自宅
祖父から大蛇伝説を聞き書きした「当区ノ伝説・言レ」を手にする和泉信一さん=松崎町小杉原の自宅
甲州の猟師が大蛇にのまれ、供養のため建てたといわれる「甲人の塔」=南伊豆町一条の塔の平
甲州の猟師が大蛇にのまれ、供養のため建てたといわれる「甲人の塔」=南伊豆町一条の塔の平
当初の大蛇院が大水で流され現在地に「大地庵」として移転。手前の墓石は元の地から移したという=松崎町小杉原
当初の大蛇院が大水で流され現在地に「大地庵」として移転。手前の墓石は元の地から移したという=松崎町小杉原
小杉原地内で採取されたサメの歯の化石。往時の人は、これを大蛇の歯と思った?(佐野勇人さん所有)
小杉原地内で採取されたサメの歯の化石。往時の人は、これを大蛇の歯と思った?(佐野勇人さん所有)

 ■和泉信一さん(小杉原)書き残す

 松崎町小杉原の古老・和泉信一[のぶかず]さん(93)が祖父から伝え聞いた大蛇伝説とは次のような内容だ。

 時は仁平元(1151)年ころ。村人らを襲った大蛇は岩科村宇野の池をすみかにし、風呂桶ほどの太さがあった。その噂を耳にした甲斐国(現在の山梨県笛吹市)の猟師が大蛇を退治に伊豆にやって来る。大蛇をおびき出すため池の近くで寝て待ったが、現れた大蛇は腰に差す霊力のある名刀のためのみ込むことができなかった。そのことに気付いた何者かによって名刀はすり替えられ、猟師はたちまちのまれてしまう。

 猟師には甲斐国に姉妹があった。伊豆国で父親が不遇の死を遂げた知らせが届き、姉妹は敵を討つため伊豆を訪れる。池代のあね(姉)ぐす山で5人張り、15捉の弓を持って待ち伏せ、現れた大蛇に立ち向かったが、鱗が厚く弓矢が刺さらない。妹が「姉様、矢の根につばを付け腮[えら]の根に射込め」と叫び、その通り放つと大蛇の厚い鱗を射貫き、大蛇は苦しみの余り山を駆け巡り、小杉原の蛇あさまという畳3枚敷きほどの岩に挟まり7日7晩うなり息絶えた。

 姉妹は弓を氏神に収め、持ち帰った大蛇の骨を村人らと葬り寺を建て、その寺を蛇骨山・大蛇院と名付けた。当時、大蛇院は今の屋号「宮下」(八幡神社下の県道沿い)の地にあったが、大水害のために流れ、現在地に移った。明治の世になり大蛇院は高原山・大地庵に名称を変えた。弓は高所にあったため流失を免れた。鍵取り人・佐藤孫左門(禰宜[ねぎ]さま)が松崎町伏倉[しくら]、藤池八郎中隠居に移り(売り渡され)、弓は当家に安置される。

 和泉さんは「(池代地区の)池は桧[ひ]が原[はら]、池ノ段、横音、上ノ段、池尻、大処にあった。池が多く池代の地名になった」や「地元のおばあさんらによる和讃(御詠歌)で大蛇伝説は長く受け継がれてきたが、戦後、廃れてしまった」という。

 ■壮大な船津さん著作 大蛇がのむ甲州の猟師「甲人の供養塔」残る

 松崎町の元校長・船津好[よしみ]さん(故人)が記した本によれば、大蛇伝説の舞台は2国3郡8カ村にまたがる。2国とは伊豆国、甲斐国、3郡とは那賀郡、賀茂郡、八代郡(甲斐)、8カ村とは小杉村、伏倉村、池代村、山口村、八木山村(以上松崎町)、一条村、蛇石村(南伊豆町)、篠原村(甲斐)だ。

 大蛇は池代川の上流、長九郎の南東側の桧[ひ]が原(大昔、ヒノキの枝が風でこすれて山火事となり、3日3晩燃え続けた所。そのため火ノ原とも。今は日ケ原で、大昔、池の周囲に田があり、これが池代の語源)に男池と女池があり太古には水をたたえていた。この池を含め南伊豆町の長者ケ原へかけて峰伝いに七つの火口湖があり、長者ケ原の池は八丁池とも大池とも言われた。大蛇はこの七つの池をすみかに峰伝いを行き来し、蛇回嶺と呼ばれた。

 船津さんは甲斐国の男は、絹商人の「伏倉説」と、猟師で岩科村の山口に滞在してイノシシや熊、シカ猟をし、一条村(南伊豆町一条)の塔の平で大蛇と格闘の末にのまれた「山口説」を紹介する。伏倉説では、伊豆に商いに来た時は伏倉の豪農の家に泊まり、名刀とからめた内容(和泉さんの祖父の伝聞もこちら)。

 山口説の大蛇にのまれた猟師は地元の人らが哀れんで、塔の平の山中に「甲人の塔」を建立した。この塔は今も残る。刻銘は風化が激しく判読できない。江戸時代の地誌「豆州志稿」には、その経緯が載り、猟師説をとるものの「時代は聖武帝や桓武帝…」とあり、8世紀ごろと古い。

 父親の敵を討つ姉妹は姉がおすま、妹がおよそ。弓の稽古を3年(一説には7年)積み、空飛ぶ鳥も射落とす腕前になった。伊豆へ向かったのは仁平元年末(1151)年弥生の頃。姉が大蛇を待ち伏せしていたのがアネグス山で姉伏山がなまり、姉がくぼとも。妹が陣を張ったのが、その西方の妹がくぼ。姉伏山と池代川を隔てた山はテイカイ段で、妹が偵察に出掛け合図の布を振った所。

 退治の様子は和泉さんの伝承とほぼ同じ。姉妹は大蛇を退治後に八幡神社にお礼の小杉を植え、姉は甲斐に帰ったが、妹は小杉原に残って地元の若者と結婚し、いつしか「小杉、小杉」と呼ばれ小杉原の地名になったという。

 船津さんの本によれば1960(昭和35)年に東京教育大(現筑波大)民俗研究会が行った調査では「絹商人が伏倉に来たのは江戸時代中期」と報告し、大蛇伝説は時代的に3説ある。

 ■自然災害伝える教訓 近くでサメの歯化石、大蛇と勘違い?

 松崎町の認定ジオガイド・佐野勇人[はやと]さん(49)は、大蛇伝説に強い関心を持つ。というのも過去の土石流や山津波などの恐ろしい自然災害を後世に伝えるため、昔の人々が大蛇や牛などに例えるケースがあり、小杉原の伝説も同様とみる。

 佐野さんは小杉原などの伝説の舞台となった一帯をこまめに探索。大蛇が死んだのはV字型の急峻[きゅうしゅん]な谷あいで、過去に土砂災害があったと想起される。「人的被害を及ぼした昔の大きな土石流を、大蛇に例えて後世の人たちに伝えるため物語にしたのでは…」

 和泉信一さんは「時代は新しいが、池代地区では宝暦9(1759)年、村の念仏の夜に49人が亡くなる大災害が起きた」と若い時に調べた。このほか南伊豆の大池は、山が決壊して土石流が蛇石の村を襲い、池は水が抜け湿地(一時は水田に活用)になったという。

 佐野さんによると、近くにはサメの歯の化石が出る場所もあり、「昔の人は山中からサメの歯が出るなんて知らない。下流に流れ下ったサメの歯を大蛇の歯と思ったり、大蛇院に埋めたのもサメの歯だった可能性がある。また一帯には鉱山があり、人が山中に入らないよう恐ろしい大蛇の話を創ったとも考えられる」。

 元高校長で、元松崎町文化財保護審議委員会会長の田口宣[のぶ]さん(92)は「落人が山中に住み、里人に見つからない(奥山に人が来ない)よう大蛇伝説を創作したのではないか」と推測した。

 ■和讃は戦後廃れる 小杉原に伝わる

【大蛇院和讃】

帰命頂来鳥うたい 花も昔のままに咲く

ここに甲州篠原の 絹屋渡世の幸エ門

蛇野が池のほとりにて 大蛇にのまれ果てしとぞ

風のたよりにこれを知り おすまおよその姉妹は

弓矢をとって七年の いばらの道の明け暮れに

仁平元年辛未 小杉の原を訪れぬ

神のお告げの夢枕 西と戌亥のその方に

六つ七つの柵をかけ しめ飾りして待つほどに

大蛇たちまち桧原の 薄をわけて現わるる

姉は伏窪 妹が窪 手練の業の矢を射れど

鱗に当たり寄せつけず 怒り狂いし蛇の前に

矢種少なくなりけるを 姉を励ます妹の

声に一矢を取り出して これを最後の梓弓

狙い違わず蛇の腮に ついに立ちたるめでたさよ

蛇腐岩に挟まりて やがて息の緒たえにけり

親の仇を討ち果たし 今は心も晴れ晴れと

八幡様に弓矢筒 宮地に植えた二本杉

語り伝えて名を残す 草の庵は大蛇院

【御詠歌】

いにしえも 今も変わらず 人の子の

誠を止む この大蛇院

春秋の光り 静かにねむるべし

大蛇の骨を秘めて建つ寺

(松崎町史資料編 第4集・民俗編下巻)

 【写説】祖父から大蛇伝説を聞き書きした「当区ノ伝説・言レ」を手にする和泉信一さん=松崎町小杉原の自宅

 【写説】甲州の猟師が大蛇にのまれ、供養のため建てたといわれる「甲人の塔」=南伊豆町一条の塔の平

 【写説】当初の大蛇院が大水で流され現在地に「大地庵」として移転。手前の墓石は元の地から移したという=松崎町小杉原

 【写説】小杉原地内で採取されたサメの歯の化石。往時の人は、これを大蛇の歯と思った?(佐野勇人さん所有)

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