熱視線=古代の伊豆(下)=“壺G”の謎 解き明かす

2019年02月12日

荒堅魚(鰹)の煮汁を入れ、伊豆から都の貴族や役人に送られた“壺G”の失敗作品=伊豆の国市郷土資料館、同市田京
荒堅魚(鰹)の煮汁を入れ、伊豆から都の貴族や役人に送られた“壺G”の失敗作品=伊豆の国市郷土資料館、同市田京
「若舎人」の石櫃も見つかった大北横穴群。48の横穴が確認されている。国史跡=伊豆の国市北江間
「若舎人」の石櫃も見つかった大北横穴群。48の横穴が確認されている。国史跡=伊豆の国市北江間
大師山横穴群に納められている家形石棺。排水溝が設けられた横穴もある。国史跡=伊豆の国市北江間
大師山横穴群に納められている家形石棺。排水溝が設けられた横穴もある。国史跡=伊豆の国市北江間
「若舎人」の文字が刻まれた大北横穴群から見つかった石櫃(52・1センチ×50・6センチ×37・4センチ)。火葬骨を納めた。国重要文化財
「若舎人」の文字が刻まれた大北横穴群から見つかった石櫃(52・1センチ×50・6センチ×37・4センチ)。火葬骨を納めた。国重要文化財
「この辺りは昔、畑に利用していた」などと語る地主の一人室伏豊一さん=瓢箪山古墳
「この辺りは昔、畑に利用していた」などと語る地主の一人室伏豊一さん=瓢箪山古墳

 ■花坂古窯伊豆の国市で焼く  

 高尾山古墳、向山16号墳、瓢箪山[ひょうたんやま]古墳に続く伊豆の古墳はどのようなものがあるか、天城を越えるとなぜ古墳は激減するのか? 時代が新しくなると横穴墓が登場し、伊豆には国史跡の柏谷横穴群(百穴)=函南町=や北江間横穴群=伊豆の国市=があり、火葬がいち早く取り入れられ、火葬骨を入れ見事な筆致で「若舎人[わかとねり]」(個人名ではなく職名)と刻まれた石櫃[いしびつ](国重要文化財)も見つかっている。稲作よりも畑で桑や麻を栽培して絹織物や麻布作りが主産物のほか、伊豆などで焼かれた小さな壺[つぼ]に荒(麁[あら])堅魚[かつお](鰹)の煮汁を入れ、都に運ばれた壺形土器“壺G”の謎も解き明かされた。古代の伊豆の人々の生活を追った。(文、写真 森野宏尚)

 ■荒堅魚の煮汁入れ、都へ運ぶ 貴族らの調味料?

 弥生時代~古代にかけ、伊豆の人々の生活は伊豆の国市の山木遺跡に代表されるように、狩野川の氾濫などでもたらされた肥沃[ひよく]な湿地を活用した米作りが思い浮かぶが、静岡大の原秀三郎名誉教授(84)は、こんな独自の論を展開する。

 「田方の田は水田だけでなく畑をも意味する。米作りもしたが、主な作物は稗[ひえ]、粟[あわ]、麦、ソバなどの雑穀のほか、桑や麻を育て絹織物や庶民用には麻布を作った」。内陸の農産物に対して天城山以南は「海の民」が主で、海岸部では荒(麁)堅魚=なまり節=を生産し海運に従事したほか、吉凶判断などもした伊豆卜部[うらべ]氏(元々は伊豆諸島)が住み、王権と結び付いていた―との考えを示す。

 下田市文化財保護審議委員会会長で市史編さん委員の外岡龍二さん(77)は遺跡から発見されるが、何に使われたか不明の大型鍋形土器と、専門家が「壺G」と分類する高さ15センチほどの壺形土器(須恵器)に注目した。

 「鍋形土器は直径40~50センチで、中には90センチ前後も存在。熱海市の水口、伊東市の竹の台、井戸川、河津町の姫宮、下田市の金山、洗田山B、南伊豆町の日詰、松崎町の東谷山、上野段などの遺跡から見つかり、沼津市の藤井原遺跡からは大量に発見された。当初は製塩に使われた―との見方もあったが、土器に付着の炭化した脂肪酸の分析から回遊性魚類を煮炊きした可能性が高まった」。

 また壺Gは平城京などの官衙[かんが](役所)跡から大量に出土し、古代の東海道が発見されたことで有名な静岡市の曲金遺跡の側溝からも見つかり、伊豆の国市花坂の花坂古窯[こよう]から“失敗作品”が出てきて同窯などで作られたことが分かった。「そんな中、平城京の二条大路から見つかった木簡に『田方郡有雑郷(現在の伊東市宇佐美)大伴部若麻呂煎一■』や『田方郡棄妾郷(現在の沼津市木負[きしょう])瀬前里大生部古麻呂 八合』とあったことで大きく進展した」。

 「煎」や「八合」、二つの木簡に記された年号「天平七(735)年」から外岡さんは「『煎』は荒(麁)堅魚の煮汁で、都の貴族や役人の間で調味料として使われ、伊豆から送った献納品と推定される。側溝から見つかったものは輸送中に転落したか?」や「伊豆、駿河の一部のものだけ『荒(麁)』を付け荒(麁)堅魚という。おいしいなど特別な意味があったのだろう」。推測の域を出ないが、煮詰めた煮汁はアミノ酸やDHA(ドコサヘキサエン酸)が豊富な古代人のうまみ・健康食品だったようだ。

 ■いち早く火葬を採用 大北横穴群から「若舎人」の石櫃

 古墳時代の後期、6世紀中ごろになると、古墳の規模や構造が大きく変わる。小型になり、一代の首長墓ではなく出入り口を設けて追葬する。小型の円墳のほか、山の斜面に横穴を掘った横穴墓が登場。田方地区では伊豆の国市北江間の大北横穴群や大師山横穴群など5群を総称した北江間横穴群、函南町柏谷の柏谷横穴群が知られる。

 横穴墓は家族や一族の墓として2~3世代にわたり使われ、当初、地位の低い人の墓との見方もあったが、渡来人によってもたらされた新しい埋葬方法との考えが今は主流だ。造られたのは柏谷が6世紀後半~、大師山が7世紀中ごろ~、大北が7世紀後半~。

 北江間横穴群は伊豆中央道・料金所の両側の山裾から少し登った場所に所在。大北は凝灰岩の山体に48基の横穴が確認でき、大きなものは奥行きが6、7メートルある。中には火葬骨を納めた石櫃を埋葬した小さな横穴もある。23個の石櫃が見つかり、「若舎人」の文字が刻まれているものもあった。「これらはわが国における火葬の草創期のもので大変重要」と同市教育委員会文化財課・学芸員の山本哲也さん(46)はいう。

 原秀三郎静岡大名誉教授は「若舎人は皇子か皇子宮に仕えた(大舎人は天皇に仕えた)舎人(官人)で、畿内との強い関わりをうかがわせる。そういう家柄が江間(古来は依馬)の地にあった。先祖をたどれば、瓢箪山古墳の被葬者と推測した若健命[わかたけのみこと]に通じる日下部直[くさかべのあたい]一族だろう」、さらに「8世紀初頭にいち早く火葬を採用した一族は、篤い仏教信仰の伝統があった。南江間から長岡にかけての地域が白鳳から平安時代初期にかけて寺院に瓦を供給した瓦窯[がよう]地帯だった」と同地域の重要性を説いた。

 大師山は10基ほどの横穴から成り、排水溝を設け、家形石棺などが納められ、有力な人物の墓を想起させる。柏谷横穴群は141基が確認され、推定約300基の県内最大規模の横穴墓である。

 「北江間は伊豆が本州に衝突する前の海底に積もった火山灰や軽石の層、柏谷は箱根火山の火砕流堆積物などを利用して造られている」と伊豆半島ジオパーク推進協議会の専任研究員・鈴木雄介さん(41)は解説し、火山地帯で加工しやすい岩質が伊豆に多いことも規模の大きな横穴墓が造られた要因とみられる。

 ■天城以南は古墳激減 海食洞など洞穴を利用

 5世紀以降の田方地区では埴輪[はにわ]や鉄製の鎧[よろい]などが出土した伊豆の国市多田の多田大塚古墳群(5世紀後半~7世紀末、9基の円墳と1基の円墳に方形の造り出しが付いたホタテ貝のような古墳)、人物埴輪が見つかった伊豆の国市小坂の駒形古墳(6世紀前半、前方後円墳)が注目される。他でめぼしいのは海岸端の沼津市戸田の井田松江[すんごう]古墳群(県史跡、6世紀末ごろ、円墳23基確認、うち17基現存)、天城以南では西伊豆町中の栗原古墳(6世紀~7世紀、円墳)ぐらいだ。

 天城山を越えると古墳は激減するが、なぜだろうか? 静岡大名誉教授の原秀三郎さんは「古墳を築造するには多くの人や資金が必要で、南伊豆には大きな墳丘墓を造れるほどの豪族はいなかったようだ。また、南伊豆は海とともに生きた人々が多かったことも関係しているのではないか」とみる。

 筑波大の滝沢誠准教授(55)は「古墳を築造する代わりに洞穴(海食洞など)を利用して墳墓にした。伊豆では河津町の波来洞穴、下田市の了仙寺洞穴や上ノ山洞穴、西伊豆町田子の辰ケ口岩陰のほか、内陸の伊豆の国市神島の笠石山洞穴の計5カ所を確認している。土器、耳環、鉄刀などの副葬品も出ている。古いものは5世紀後半までさかのぼるものもある」と説明した。

 調査が進む房総半島や三浦半島の洞穴遺跡からは丸木舟を転用した木棺や舟形の木棺が出土するなど重要な発見があったというが、「伊豆の洞穴墓の調査は遅れている。調査が進めば新たな発見もあるかもしれない」と指摘する。

 ■解説=前方後円墳と前方後方墳

 前方後円墳は3世紀中ごろ(もう少し早いとの見方もある)に登場し、大和王権の権威を他地域に誇示するための象徴的な墳墓とされる。地方であっても大和の許可がなければ造ることができなかったようだ。

 弥生時代終末期(2世紀)の前方後円形の円形周溝墓が原型といわれ、前が方形(四角)、後ろが円形で、この二つを結合した形。円形部の土中に石室があり、方形部の平らな所で祭祀[さいし]を行った。石室は初期が単独葬の竪穴式、中期以降は追葬が可能で墳墓の横に入り口がある横穴式に移っていく。

 ピラミッドをしのぐ世界最大の墳墓で、国内最大は仁徳天皇陵(墳丘長4866メートル)で、最古級タイプ(指標)の前方後円墳は奈良県の箸墓[はしはか]古墳(墳丘長280メートル)とされ、前方部が前方に向かって撥(バチ)状に曲線状に開く特徴を持つ。

 前方後円墳は6世紀終わりごろ(一部7世紀初頭)まで造られたが、以後、縮少していき、墳墓の形も円墳や方墳に移行していく―とされる。

 東駿河や伊豆の主な前方後円墳は向山16号墳、神明塚古墳(沼津市)、瓢箪山古墳、子ノ神古墳(沼津市)、向山3号墳、駒形古墳(伊豆の国市小坂)など。

 前方後方墳は前後とも方形の墳墓だ。弥生時代後期末から前方後方墳の祖型である前方後方形墳丘墓が造られ始め、古墳時代前期前半に東海・関東地方で前方後方墳が多く築造された。特に東日本の前期古墳、出現期古墳に多い。

 伊勢湾岸で誕生し、各地に広がったとの見方もある。前方後円墳を造った大和王権に対抗した東海地方の「狗奴国[くなこく]」(九州説もある)の勢力による墳墓と主張する研究者もいる。全国で前方後円墳は約5200基あるといわれるのに対し、前方後方墳は250~300基とされ、圧倒的に少ない。

 県内の前方後方墳は高尾山古墳のほか、墳丘長98メートルで県内最大を誇る富士市増川の浅間古墳(国史跡、4世紀中ごろから後半築造)などがある。

     ◇……………………◇

 ■多くの古墳発見へ 赤色立体地図に期待―滝沢筑波大准教授

 ジオパークで注目を集める航空レーザー測量の赤色立体地図をきっかけに瓢箪山古墳の墳形が確認されたことを受け、滝沢誠・筑波大准教授は「この地図の活用で、多くの古墳が発見される可能性がある」と期待を寄せる。

 赤色立体地図は樹木の葉の間からレーザーが地上に到達、地形そのものが現れ、ジオパークで活用されることが多い。瓢箪山古墳の“発見者”でもある伊豆半島ジオパーク推進協議会の専任研究員・鈴木雄介さんが同古墳一帯の赤色立体地図を確認すると、見事な円形を描いた円墳=写真、国土交通省沼津河川国道事務所提供、同推進協が部分処理=も浮かび上がった。

 鈴木さんは「横穴墓らしきものも見つけたことがあり、古墳探しにチャレンジするのも楽しい」と話した。

 ■「公園望む。協力したい」―瓢箪山古墳・土地所有者の室伏さん

 函南町平井の瓢箪山古墳が所在する場所は民有地(2人が所有)で、土地所有者の一人である室伏豊一さん(64)に話を聞いた。同所を元々所有していたのは地元の名家(大地主)で、明治時代に分割して室伏家などが譲り受けたという。

 「父親は古墳の端っこを2メートルぐらい掘って畑にした。開墾した時に石積みが見つかり、いろいろなものが出てきたと聞いている。墳丘と思われる最も高い場所(深く掘っていない?)からは日本刀50振りや鏡(銅鏡?)、壺、翡翠、数珠などが出てきて、専門家の鑑定では一部は古墳時代ではなく江戸時代のものとみられる」

 加えて「当時、これらは県立韮山高に引き渡したとのことだが、後に同校で調べてもらったところ確認できなかった。祖父の代には古墳(代々守られてきた墓)だと知っていたようで、父親が墳頂部に祠[ほこら]を祭った」

 一時期、函南東中を一帯に建てる計画もあったが、古墳(古くからの墳墓)にかかるということで地元が反対したという。「天地神社の場所にはお城があったとの話も聞いたことがある。周囲を宿通りといい、駿河湾や大仁の城山も見える。重要な前方後円墳なら皆に見てもらえるよう公園の整備を望む。協力もしたい」。

 【写説】荒堅魚(鰹)の煮汁を入れ、伊豆から都の貴族や役人に送られた“壺G”の失敗作品=伊豆の国市郷土資料館、同市田京

 【写説】「若舎人」の石櫃も見つかった大北横穴群。48の横穴が確認されている。国史跡=伊豆の国市北江間

 【写説】大師山横穴群に納められている家形石棺。排水溝が設けられた横穴もある。国史跡=伊豆の国市北江間

 【写説】「若舎人」の文字が刻まれた大北横穴群から見つかった石櫃(52・1センチ×50・6センチ×37・4センチ)。火葬骨を納めた。国重要文化財

 【写説】「この辺りは昔、畑に利用していた」などと語る地主の一人室伏豊一さん=瓢箪山古墳

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