伊豆の低山を歩く ジオてくの楽しみ46=弦巻山・駒嶽(根府川通り・日金道・伊豆山道)函南町

2019年01月29日

1.田代盆地から掘り出した神代杉の数々。渡辺さん(写真)が神代杉を彫った裸婦の彫刻作品も並ぶ=函南町軽井沢
1.田代盆地から掘り出した神代杉の数々。渡辺さん(写真)が神代杉を彫った裸婦の彫刻作品も並ぶ=函南町軽井沢
2.峠を越え熱海へ野菜などを売りに行った熱海商いの姿を渡辺さんが神代杉を彫って表現
2.峠を越え熱海へ野菜などを売りに行った熱海商いの姿を渡辺さんが神代杉を彫って表現
3.軽井沢峠にある道標を兼ねた石仏。「右熱海道…左日金道」などと刻まれる。1713年の建立。正月にはお飾りも
3.軽井沢峠にある道標を兼ねた石仏。「右熱海道…左日金道」などと刻まれる。1713年の建立。正月にはお飾りも
4.東京・浅草の糸問屋町田徳之助氏が安全な道程に感謝し、建立したとみられる大きな石造物=軽井沢峠
4.東京・浅草の糸問屋町田徳之助氏が安全な道程に感謝し、建立したとみられる大きな石造物=軽井沢峠
5.一般的には単体だが、函南町内はなぜか双体の道祖神が多い。これは1717年に建立された=同町田代
5.一般的には単体だが、函南町内はなぜか双体の道祖神が多い。これは1717年に建立された=同町田代
登山データ表
登山データ表
登山ルート図
登山ルート図

 ■山と人々=シェルパの村 軽井沢 石仏と神代杉と熱海商い

 函南町の丹那盆地と田代盆地に挟まれた山あいに軽井沢という小集落がある。その昔、下田街道を間宮で東に分かれ、平井―鬢[びん]の沢―軽井沢―日金山―伊豆山―根府川―小田原に抜ける根府川道(日金道や伊豆山道)が通り、途中を分岐すれば熱海に下った後に合流した。天下の険・箱根越えは箱根峠や足柄峠が知られるが、軽井沢峠が最も低く、多くの武将や文人ら歴史に名を残す人々も越えた。

 「公民館前の直線区間には旅籠[はたご]が連なり、江戸時代は少なくとも5軒、俳人・歌人の正岡子規が訪れた明治時代は3軒あった。地域全体が峠越えの人々や荷物を熱海などに運ぶシェルパの村だった」と同地生まれの渡辺一美さん(72)はいう。丹那トンネルの開通や車道整備で廃れた。

 子規は1892(明治25)年に三島、修善寺、韮山、軽井沢、熱海、大磯を訪れた。泊まった軽井沢の宿で「唐きびのからでたく湯や山の宿」「鼻たれの兄と呼ばるる夜寒かな」、峠越えに「朝霧や馬いばひあうつづら折」など軽井沢一帯で8作品、修善寺に逗留中の乃木大将も11(同44)年元日、熱海に滞在していた昭和天皇に謁見[えっけん]するため峠を越え「あなたふと弦巻山の朝けしきひがしはあさ日西は富士が嶺」など2首を詠んだ。

 渡辺さんが見せてくれた昔の地図に、軽井沢中心地の字名が西伊豆と同じ大沢里[おおそうり]、弦巻山のほか、その南側が太鼓コロガシ、軽井沢峠の山が駒嶽とあった。「頼朝が石橋山の合戦で敗れ、家来が逃げ隠れた際、荷物になるため陣太鼓を捨てたのだろうか」。弦巻山中腹の駒形堂跡には伝説がある。平将門が京より下向の途次、堂に祈願したことで急病の愛馬が平癒したや、源頼朝が堂参詣の折に名馬「池月」を発見したとか。駒形堂は集落の泉竜寺寺域に移された。

 こんな思い出も聞かせてくれた。「昔は軽井沢峠一帯だけがうっそうとした原生林で、ほかは草原の芝山。熱海側は峠まで畑だった」「熱海との交流は深く、嫁に行く人や戦後は熱海温泉がにぎわい、農産物を山積みした籠を背負い片道3時間かけ峠越えで売りに行く熱海商いの女性が多くいた。水田のない軽井沢は炭や野菜、田代は米、畑[はた]は米を加工し餅を売った」

 渡辺さんは田代盆地の自身の田んぼから神代杉を掘り出し、自宅納屋を改修、展示中。「地下1メートルからは3千年前、3メートルからは2万5千年前、32メートルからは25万年前の木片が出てくる。田代盆地には神代杉が多く眠る」。古道の入り口、大カーブ上が自宅で、無料で見学できる。

 ■登山記=最も低い箱根越え 往時の日金道、復元可能?

 軽井沢公民館先の大きなカーブを曲がらず直進すると古道の根府川道が姿を現す。その先の空き地に車を止める。20余年前、函南町文化財愛護の会が軽井沢峠まで約3キロを「根府川通り・日金道(熱海街道)」として整備したが、今、荒れが目立つ。

 集落裏手が地元でいう弦巻山(ピークがはっきりしない)で、古道が通る。わずかで車道に出たら右折、すぐ左折すると駒形堂跡。抜けると「出会いの辻(別れの辻)」で、「田代方面に通じる道が合流、分岐するため、二つの言い方がある」(渡辺さん)。ここから人工林内を歩く。古道は人工林と自然林の境を通り、笹竹が茂るが境を見失わないように歩けば迷わない。

 自然林内には大規模なメガソーラーラー計画がある。再び古道のほか石畳も出てくる。江戸時代の石畳と思いきや「50年ほど前に電話線を埋設した際に整備した」という。峠に近づくと石仏や石造物が現れ、屋敷跡のような場所も見られ、日金山の西の坊もあったようだ。

 江戸時代の洋風画家・司馬江漢[しばこうかん]の「西遊日記」に、軽井沢峠の地蔵堂下坊舎に立ち寄った時の写生画があり、囲炉裏を囲み談笑する老婆らが描かれている。「生きたウナギをぬかなどに入れて運ぶ際、奥の古井戸で水をつぎ足した」(渡辺さん)。

 明治・大正・昭和を生き、東京や富士市に学校を創立、富士で化繊工場を経営した東京浅草の糸問屋・町田徳之助氏が建てた石造物と観音線描も沿道を飾る。清見寺[せいけんじ](静岡市)にも石塔を寄進、この道をよく往来した礼に建立したのだろうか。

 今は伊豆スカイラインで古道は分断され、手前の道標に「右熱海道 相州 吉浜 左日金道 亨保三年」とある。左手側へ上り、車に注意してスカイラインを横断。「広場右端を下り防火帯を歩けば、わずかで熱海市焼却場・火葬場付近だが、昔は谷あいに相の原団地方面に抜けられる道があった」と渡辺さんはいう。広場左手の鉄塔方面には日金道がかすかに残り、笹竹の繁る中を強行突破すると熱海峠の熱海寄りに出た。少し整備するだけで、歴史道である日金道が復元できるか?。

 現状は軽井沢峠で折り返すのが無難だ。出会いの辻で右手の田代方面に下り、県道熱海函南線(旧道)を横断し集落へ。幹線との分岐に双体道祖神がある。伊豆は単体が一般的で田方地区に双体6体中、函南町内に5体が集中。田代のものは「亨保二年」「田代村」と銘が読み取れ、町文化財に指定。軽井沢公民館近くにもある。

 右折して火雷[からい]神社で北伊豆地震の断層や社叢[しゃそう]を見て車に戻った。真東の小山(人家裏)は田代城跡だ。

 ■ジオ解説=前震活動特徴の北伊豆地震 自発的に警戒、対応 人的被害小さく

 南北に並ぶ丹那盆地と田代盆地をつなぐ直線的な谷の中に軽井沢がある。この谷は過去に何回も繰り返されてきた丹那断層の活動によってできた。

 丹那断層の最新の活動は1930年11月26日早朝に起こった北伊豆地震(マグニチュード7・3)である。北伊豆地震で地表に現れた断層のずれは、丹那断層公園や田代盆地の火雷神社などに保存されている。軽井沢でも集落西側を流れる川に沿って南北に断続的に断層のずれが現れ、半数以上の家屋が倒壊するなど多くの被害が生じた。こうした大きな建物被害があった一方、亡くなった方は少ない。

 北伊豆地震の特徴の一つに顕著な前震活動がある。前震は11月7日から起き始め、13日からは多数の有感地震も生じ、本震前日の25日には無感地震も合わせると700回もの地震が記録された。また25日夕方には中央気象台の国富信一主任技師(当時)は25日午後4時に発生した地震について、断層の活動によるものであって「危険性ある地震」であることを新聞記者に話している。

 こうした多数の地震は、地域の人々に、大きな地震が来ることを連想させた。実際、軽井沢地区でも夜回りの実施や火災への警戒、建物の倒壊への対応(屋根が軽い建物で寝泊まりする、縁側にもみ殻袋を積み上げて押しつぶされるのを防ぐなど)が行われていたという。

 多数の前震から本震の発生を予測できたというわけではないが、前震を受けた地域の自発的対応が人的被害を結果的に小さくした。

 前述の国富技師は「もとより地震の予知、殊(こと)に其(その)時日大きさに関してまで完全に、予知することは現在の科学と人力を以(もっ)てしては到底不可能事に属します(時事新報、同年12月5日)」と述べている。この状況は現在でも変わっていない。

(伊豆半島ジオパーク推進協議会専任研究員・鈴木雄介)

 【写説】田代盆地から掘り出した神代杉の数々。渡辺さん(写真)が神代杉を彫った裸婦の彫刻作品も並ぶ=函南町軽井沢

 【写説】峠を越え熱海へ野菜などを売りに行った熱海商いの姿を渡辺さんが神代杉を彫って表現

 【写説】軽井沢峠にある道標を兼ねた石仏。「右熱海道…左日金道」などと刻まれる。1713年の建立。正月にはお飾りも

 【写説】東京・浅草の糸問屋町田徳之助氏が安全な道程に感謝し、建立したとみられる大きな石造物=軽井沢峠

 【写説】一般的には単体だが、函南町内はなぜか双体の道祖神が多い。これは1717年に建立された=同町田代

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