熱視線=古代の伊豆(上)墓の主「イズの首長」誰?

2019年01月20日

滝沢准教授の指導のもと瓢箪山古墳の発掘調査をする学生ら。右端は墳丘上の祠(ほこら)=函南町平井、写真は同准教授提供
滝沢准教授の指導のもと瓢箪山古墳の発掘調査をする学生ら。右端は墳丘上の祠(ほこら)=函南町平井、写真は同准教授提供
瓢箪山古墳の発掘調査を行った滝沢准教授=筑波大の研究室
瓢箪山古墳の発掘調査を行った滝沢准教授=筑波大の研究室
伊豆半島ジオパーク推進協の鈴木雄介さんが函南町の赤色立体地図を見ていて偶然見つけた瓢箪山古墳(中央のキノコ状)。左の平らな部分は平井台地、右端の縦線状は柿沢川=国土交通省沼津河川国道工事事務所がデータ提供。同推進協が部分処理
伊豆半島ジオパーク推進協の鈴木雄介さんが函南町の赤色立体地図を見ていて偶然見つけた瓢箪山古墳(中央のキノコ状)。左の平らな部分は平井台地、右端の縦線状は柿沢川=国土交通省沼津河川国道工事事務所がデータ提供。同推進協が部分処理
県道熱海函南線からよく見える瓢箪山古墳(右奥の竹やぶ・林の中)=函南町平井
県道熱海函南線からよく見える瓢箪山古墳(右奥の竹やぶ・林の中)=函南町平井

 ■伊豆最大前方後円墳・函南の瓢箪山古墳  

 函南町平井で、伊豆最大級の古墳時代前期前半(4世紀前半~中頃)の前方後円墳「瓢箪山[ひょうたんやま]古墳」の存在が確認された。北伊豆や沼津(東駿河)地区では2千年以降、3世紀中期の前方後方墳「高尾山古墳」=沼津市東熊堂[ひがしくまんどう]=、3世紀後半の前方後円墳「向山古墳群16号墳」=三島市谷田=が見つかり、東日本の古代史を塗り替える発見が相次いでいる。旧来の北伊豆、東駿河の古墳出現期は古墳時代中期~後期とされてきたが、より古い時代へ見直すことが迫られそうだ。伊豆の国市以南に前期古墳や大型古墳はなく、「イズの首長」の墓とみられる瓢箪山古墳はじめ各古墳の被葬者はどのような人物か、また古代の伊豆半島はどんな社会だったか? 専門家に聞いた。(文、一部写真 森野宏尚)

 ■半島付け根にオブジェ 道通る人にアピール

 伊豆最大級の前方後円墳が見つかったのは箱根山南西麓を源流域に、狩野川へ合流する来光川と柿沢川に挟まれた平井台地の丘陵先端付近。県指定の大クスノキで知られる天地神社裏(東)側にあたり、住宅裏の地元で瓢箪山と呼ばれている高台だ。前方後円墳の形状がヒョウタンに似ていることから、瓢箪山の名が付いたとみられる。標高は約85メートル(祠[ほこら]がある墳頂部、4等三角点)。

 水はけの良い丘陵一帯では「平井スイカ」が栽培され、名産となっている。古墳の隣も春~夏場はスイカ畑で、富士山の眺望が素晴らしい。

 瓢箪山古墳の存在は戦前の「田方郡史」(1918年)や「静岡県史」(30年、94年発行の最新版には記載なし)、地元の「平井誌」(69年)などに古墳名と簡単な説明のみが記載され、存在自体は一部で知られていた。そんな中、伊豆半島ジオパーク推進協議会の専任研究員・鈴木雄介さんが航空レーザー測量の赤色立体地図を見ていて偶然、精美な墳形を確認した。

 その知らせを受けた筑波大人文社会系の滝沢誠准教授(55)が現地踏査し、古墳の存在に確信を得て2016~18年度の科学研究費・基盤研究「伊豆半島の前期古墳と東日本太平洋岸域の拠点形成に関する基礎的研究」の採択を得て発掘。測量と14カ所にトレンチ(試掘溝)を掘るなどの基礎調査をした。

 結果、前方後円墳で墳丘長約87メートル、後円部の直径50メートル台後半、前方部の長さ約30メートルの大きさが確認されたほか、後円部が大きく、前方部が短く、さらに左右非対称であるなどの特徴も分かった。滝沢さんは「後円が大きく前方が短い帆立貝式前方後円墳は5世紀以降はトップクラスの被葬者の墳墓ではないが、瓢箪山はその前段階の古墳であり、ただちに同様の評価はできない。こうした墳丘の形は通常の前方後円墳とは異なる系譜をもつ」とみる。

 さらに「古墳の西側に平らな部分があって2段構造になり、東側に比べ高く造られている。函南から熱海に抜ける峠越えの幹線道が近くの谷筋を通り、道を通る人に古墳が大きく見えるように造られている。一帯を治めた権力者が自身の力を誇示する意味もあったのだろう」と分析した。

 その上で「伊豆半島内に入れば遠回りになるため半島の根元をショートカット、古墳はその目印(オブジェ)でもある。神奈川県逗子市や葉山町の三浦半島の付け根にも幹線を通る人にアピールするように築造された同時代の前方後円墳2基(墳丘長91・3メートルと88メートル)があり、共に偶然とは思えない。意識して造られたのだろう」と語った。

 ■土器など遺物出ず 高尾山は大量出土 なぜ?

 瓢箪山古墳の発掘調査で、土器などの遺物はほとんど出土していない。沼津市の高尾山古墳(県内、東日本最古クラスの前方後方墳)などからは大量の土器が見つかっているのに対し、瓢箪山古墳はじめ三島市の向山古墳群16号墳(瓢箪山古墳に、やや先行して造られた前方後円墳)からはほとんど見つかっておらず、滝沢さんは「対照的であり、この差は何を意味するのか」と指摘する。

 瓢箪山古墳の発掘は、大きさや形を見るための基礎調査で埋葬場所は掘っていない。「ただ土器が多く出土する古墳では、この段階でたくさん出てくる」(滝沢さん)ことがほとんどで、高尾山古墳や沼津市大諏訪のJR片浜駅近くの線路際にある神明塚古墳(高尾山古墳に後続する前方後円墳、墳丘長52・5メートル)では墳丘上や周囲から大量に見つかっている。

 滝沢さんは「沼津方面と三島・田方方面では祭りの仕方が違うのか?」と疑問を投げ掛け、「向山16号墳と同じ墳丘形態を持つとみられる静岡市の神明山1号墳も、さほどの土器は出ていない。こうした土器出土量の差異は何を意味するのか。東海西部系の土器が見当たらない事実と併せ今後、研究していく必要がある」と説く。

 富士宮市教育委員会・埋蔵文化財センター所長の渡井英誉[ひでよ]さん(59)は次のような見方をする。

 「神明塚古墳と同規模で、沼津市西沢田の子ノ神[ねのがみ]古墳(神明塚に後続する前方後円墳、推定墳丘長約64メートル)では土器の出土がほとんど認められない」とした上で「多彩な土器祭祀[さいし]は弥生時代以来の祭祀形態を残すものと捉えられ、時代が新しくなるにつれ埴輪[はにわ]祭祀の開始に移行していく。土器祭祀の終焉[しゅうえん]は埴輪祭祀の登場に関連するが、移行期(古墳時代前期後半ごろ)には土器も埴輪も出土しないケースがある」とし、時代による祭祀の仕方の違いに言及する。

 一方、県埋蔵文化財センターの岩本貴さん(47)は「墳墓を造った勢力が畿内系か、東海西部系か―その違いにもよるのではないか」と推測した。

 ■逓信病院遺跡の集団が築造か 山木から平井へ幹線近くに拠点移る 

 伊豆で最大の前方後円墳である瓢箪山古墳は、誰を埋葬した墳墓なのか?。瓢箪山古墳を発掘調査した滝沢さんは、同古墳と数百メートルしか離れていない西側眼下に位置する同じ平井台地内の伊豆逓信[ていしん]病院敷地内遺跡(NTT東日本伊豆病院敷地内)との関わりに注目する。「瓢箪山古墳の造営に直接関わった集団の居住地域で、葬られている首長もこの辺りに住んでいたのではないか」と想像を膨らませる。

 同遺跡からは町が数回にわたり行ってきた発掘調査で弥生時代後期以降の遺構・遺物が多数出土しており、集落は古墳時代前期後半以降に拡大する傾向が認められるという。このことから滝沢さんは「弥生時代後期後半に盛期を持つ伊豆の国市の山木遺跡の周辺から、平井台地の周辺に北伊豆地域の拠点的な集落が移動してきたことを示唆するものだ」とし、そのキーワードに「道」を挙げる。

 大和王権の東国への進出には道が重要な位置を占め、半島付け根を通る幹線方面に集落の拠点が移ってきたと指摘する。「当時は海路を多用し、大量の物資を運ぶのに海路は適しているが、難破などの危険もあって不安定。確実に地方に情報伝達するには陸路の整備が必要で、幹線的陸路の近くに中心地が移っていくのは自然のことではないだろうか」。

 滝沢さんは今後、瓢箪山古墳の基礎調査に続き、本格的な発掘調査を実施したい意向で、北伊豆地区の古墳時代前期の姿を解き明かしていきたいとしている。

 ■「被葬者は若建命」原静岡大名誉教授が推定―初代の伊豆国造

 静岡県史の中に「考古学研究の立場から特定の古墳の被葬者名を推測することは、ほとんど不可能といってよい。埋葬された人物名を特定できる墓誌などの実証ができない限り、誰それの墓と称することはできず、また言うべきでないと考える。県内の有力前方後円墳の被葬者名を特定することは、現段階では考古学的に不可能と考えている」との一文が載る。

 そんな中、本県における古代史研究の第一人者である静岡大名誉教授の原秀三郎さん(84)は、瓢箪山古墳の主について「伊豆国造伊豆宿禰[すくね]系譜(三嶋大社宮司・矢田部家の系図)に見える国造制の初代伊豆国造[くにのみやっこ]の若建命[わかたけのみこと]ではないか」とあえて具体名を挙げた。若建命は「国造本紀」によれば「神功皇后御代。物部連祖天〓桙[あまのぬぼこ]命八世孫[うまご]」とある。時代的には神功皇后のころで、4世紀中ごろ。

 だが、律令国家時代の伊豆国は「扶桑略記[ふそうりゃくき]」の「天武天皇九(680)年駿河二郡置伊豆国」や「続日本紀[しょくにほんぎ]」の天平十四(742)年に「日下部直益人[くさかべのあたいますひと]に伊豆国造伊豆直[いずのあたい]の姓を与える」とあるように、駿河国(現在の静岡市周辺ではなく、古代は沼津市や富士市を中心にした伊豆を含む一帯)から分離し7世紀に誕生、益人が初代の伊豆国造に就いた。

 原さんは「静岡県立図書館などの所蔵本から校訂を加えた伊豆国造伊豆宿禰系譜(抄)は疑わしいものではない。瓢箪山古墳の築造年代に田方地区で力を持っていたのは若建(若多祁)命で、この家系からは続日本紀にある伊豆直の姓を賜った伊豆国造の益人も出ている。現在の三嶋大社宮司の矢田部家にもつながり、バックには物部氏がいた」と解説した上で「あれだけの古墳に納まる人物としては、彼しかいない。伊豆宿禰系譜の信頼性も高まった」と力説した。

 【写説】滝沢准教授の指導のもと瓢箪山古墳の発掘調査をする学生ら。右端は墳丘上の祠(ほこら)=函南町平井、写真は同准教授提供

 【写説】瓢箪山古墳の発掘調査を行った滝沢准教授=筑波大の研究室

 【写説】伊豆半島ジオパーク推進協の鈴木雄介さんが函南町の赤色立体地図を見ていて偶然見つけた瓢箪山古墳(中央のキノコ状)。左の平らな部分は平井台地、右端の縦線状は柿沢川=国土交通省沼津河川国道工事事務所がデータ提供。同推進協が部分処理

 【写説】県道熱海函南線からよく見える瓢箪山古墳(右奥の竹やぶ・林の中)=函南町平井

〓(851c)は草カンムリに土の下に方、右に牧のツクリ

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