伊豆の低山を歩く ジオてくの楽しみ42=小鍋峠・広尾峠(河津町・下田市)

2018年08月01日

1.小鍋峠への途中、普門院の分岐に建つ道標。直進は「従是 下田道」と刻まれ、旧下田街道の面影を残す
1.小鍋峠への途中、普門院の分岐に建つ道標。直進は「従是 下田道」と刻まれ、旧下田街道の面影を残す
2.小鍋峠に向かう途中にある頭に丸い石が載せられた地蔵。1827年の造立
2.小鍋峠に向かう途中にある頭に丸い石が載せられた地蔵。1827年の造立
3.小鍋峠に建つ歌碑と、近くの地蔵2体は破損が著しい。題目塔もあり、一帯は低いが峠の雰囲気を残す
3.小鍋峠に建つ歌碑と、近くの地蔵2体は破損が著しい。題目塔もあり、一帯は低いが峠の雰囲気を残す
4.尾根が少し広く峠名の由来になっている広尾峠。踊子や学生が越え、地蔵などが多く安置される
4.尾根が少し広く峠名の由来になっている広尾峠。踊子や学生が越え、地蔵などが多く安置される
5.広尾峠の天川側にある4体の地蔵。お参りに来ている形跡はなかった
5.広尾峠の天川側にある4体の地蔵。お参りに来ている形跡はなかった
登山データ表
登山データ表
登山ルート図
登山ルート図

 ■山と人々=踊子と学生が越す 知られず荒れ放題

 三島―下田を結ぶ旧下田街道の下田市と河津町境にあるのが小鍋峠で、ノーベル文学賞作家・川端康成の名作「伊豆の踊子」の踊子や学生が越えたのが河津町天川[あまかわ]―逆川[さかさがわ]の広尾峠である。小説に広尾峠の名は登場せず、観光的に活用されなかったため知られていない。だが、主人公の2人が心通わす重要な場所だ。今は荒れ果て通る人もいない。

 幕末を彩る人々が通行した「歴史の道」の真下や周辺で、伊豆縦貫道のトンネルを抜く工事などが急ピッチで進む。小鍋峠は老中・松平定信による伊豆巡検で一行250人ほどが越し、初代駐日総領事タウンゼント・ハリスも下田から江戸に向かう途次に「小山を越す」と書き記す。

 県教育委員会発行の「静岡県歴史の道 下田街道」の執筆者の1人である下田市市史編さん室の高橋広明さん(70)は「江戸時代の重要な道で、幕末には多くの人が通行した」と解説した。

 「踊子は広尾峠を越えたようだ」と教えてくれたのは、峠道の天川側の土地を多く所有する元町議・相馬努さん(82)。その言葉通り「伊豆の踊子」の中に湯ケ野温泉を出立した後、「途中で少し険しいが二十町ばかり近い山越えの間道を行くか、楽な本街道を行くかと言はれた時に、私は勿論[もちろん]近路[みち]を選んだ」「落葉で辷[すべ]りそうな胸突き上りの木下路[このしたみち]だった」などと出てくる。

 地元の歴史に詳しい同町梨本の元民宿経営・稲葉修三郎さん(92)は「小説には海が見えるような表現があるが、湯ケ野や広尾道からは見えない。川端先生が亡くなる前、福田家でお会いし、聞くと『小説(創作)だから』などとおっしゃっていた」。峠の少し逆川側に学生らが喉を潤した泉の話が出てくるが、逆川の農業・稲葉忠宣さん(76)は「昔は一年中枯れない湧き水が確かにあった。近年は雨が降った後しか出ない」という。

 国道414号の天川―逆川は明治時代に工事が始まり、大正時代に完成。車道ができても広尾峠は近道のため、多くの人が通行した。「昭和30年代、砂利道を通るバスより子どもたちは速く峠を越えた」と稲葉さん。国道を歩くと倍かかる。

 下田市出身の静岡大名誉教授の原秀三郎さん(83)は近年、稲生沢川水系で水運が盛んだったとの学説を提唱。「水運の技術を持った人たちが川津筏場から逆川に移り住み、稲生沢川や稲梓川で活躍し普門院、三島神社という立派な寺社を維持、造営してきた。ルーツが上河津(川の流れとは逆方向)だったこともあり、地名を逆川と名付けたのではないか」と推論した。

 ■登山記=石造物点在の歴史道 「鍋論争」の真実は?

 河津町湯ケ野、国道414号沿いの小高い場所にある湯ケ野町営駐車場に車を止めた。入り口の踊子像はイメージと異なり残念だ。国道を挟み反対側の小鍋方面に歩を進めた。河津川を渡り、坂をわずかに上がると鋭角的に左に折れ、旧下田街道の小鍋峠方面へ。

 小鍋や隣接する大鍋の地名について「源頼朝が訪れた際、一行の料理を作る大きな鍋を持参した地区を大鍋、小さな鍋の地区を小鍋、帰路途中に鍋をなくした天城峠に近い場所を鍋失[なべうしない]と名付けた」とされ、稲葉修三郎さんは「この説通り」と。これに対し原秀三郎静岡大名誉教授は「大野辺[おおのべ]、小野辺[このべ]が語源で、鍋失は野辺(人間が利用する所)が終わる野辺失から来ている」と説いた。頼朝の父・義朝の髑髏[どくろ]が埋まるとの伝説がある小鍋神社も近くだ。その裏が義朝山[ぎちょうざん]。

 わずかで山道になり、頭が欠落し丸い石を載せた地蔵の先に「従是下田道」「従是普門院道」の道標が建つ。左折する普門院方面は今、崖崩れで通行不能。しばらく歩くと小鍋峠で、大木の「一本松」があったが枯れた。峠には江戸時代建立の「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」と刻まれた題目塔や、傷みが激しい地蔵2体と歌碑が建つ。稲葉さんは「峠の下を大平[おおだいら]と呼び、天川にある大平山[たいへいざん]・寿雲院が江戸時代以前はここにあった」。

 山道を抜けると林道に出て、下田市八木山の集落を通過。田んぼではクレソンや休耕田で最近、オリーブを栽培。旧街道沿いの小屋の中に子安地蔵や廻国塔[かいこくとう]が並んで建ち、その先の分岐(同市北ノ沢)には1852年建立の「右 下川津東浦 左 三しま 道」の道標がある。

 この先を左折、しばらく行くと河津町逆川。集落内や川沿いを歩き、途中左折して普門院に立ち寄る。戻って川の上流を目指し、最奥の人家と生け垣の間の小道を入り、15分ほど歩けば広尾峠。今回、小説の踊子とは逆方向で峠を越えた。

 「峠は尾根が広く、峠名のいわれ」と稲葉さん。逆川と天川の集落の人たちが守る石仏が多くあり、稲葉忠宣さんは「昔は縁日も開かれ、下のお世話にならないため、近在近郷の人でにぎわった」。

 天川側は道が荒れ、目印のテープを頼りに進むとコンクリート道に出る。途中に目を引くスダジイの大木があった。左に下ると国道414号で、左手方面の河津橋を渡り上流側へわずかで河津川沿いの踊子歩道。のんびり歩き「伊豆の踊子」の名場面の宿・福田家や隣接地の川端の生前、唯一建立された文学碑を見学。足湯で疲れを癒やし、車に戻った。

 ■ジオ解説=海底火山の地層分布 浸食にさらされ急峻

 下田街道は二つの峠を越えて伊豆の南北をつないでいる。こうした峠道を踊子一行やタウンゼント・ハリスも歩いた。有名なのは天城越え。踊子は標高約710メートルの天城山隧道を越え、現在の人々は主に標高約640メートルの新天城トンネルで天城山を越える。

 天城越えのルートは何度も付け変わっており、ハリスが越えた頃は現在の天城峠から西に2・5キロほどの二本杉峠(標高約810メートル)が主なルートだった。標高の高いところを越える天城越えに対し、小鍋峠や広尾峠は標高250~300メートル程度の低い峠だ。

 伊豆半島の地質は非常に大ざっぱに区分すると、約100万年前の伊豆と本州の衝突以前の海底火山や火山島の地層と、衝突以降の陸上火山を主体とした地層に分けられる。海底火山の地層は衝突によって隆起し伊豆半島の全体に分布するが、天城火山や達磨火山をはじめとするその後の陸上火山の噴出物によって覆われている。

 伊豆半島中央部の標高の高いエリアはこうした陸上火山によってつくられており、陸上火山の上を越える天城峠や亀石峠、船原峠などは標高の高い峠だ。一方で、海底火山の地層が分布する伊豆半島南部は低い山が多く、そこを越える峠は標高の低い峠になる。

 ただし陸上火山に比べると長い年月浸食にさらされているため、その斜面は急峻だ。低く急峻な山の合間に点在する集落をつなぐ峠は、集落や街道の位置を考慮しつつ、できるだけ短い距離で、できるだけ標高差の低いところを選んで付けられたのではないかと思う。地図で広尾峠を見ると、河津川と稲梓川が最も近づく場所に峠道がつくられているのがよく分かる。

(伊豆半島ジオパーク推進協議会専任研究員・鈴木雄介)

 【写説】小鍋峠への途中、普門院の分岐に建つ道標。直進は「従是 下田道」と刻まれ、旧下田街道の面影を残す

 【写説】小鍋峠に向かう途中にある頭に丸い石が載せられた地蔵。1827年の造立

 【写説】小鍋峠に建つ歌碑と、近くの地蔵2体は破損が著しい。題目塔もあり、一帯は低いが峠の雰囲気を残す

 【写説】尾根が少し広く峠名の由来になっている広尾峠。踊子や学生が越え、地蔵などが多く安置される

 【写説】広尾峠の天川側にある4体の地蔵。お参りに来ている形跡はなかった

 【図表】登山データ表

 【図表】登山ルート図

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