熱視線=封印されてきた戦線鉱業仁科鉱山―西伊豆町白川(2)

2017年11月04日

中国人生存者への聞き取りで、過酷な労働の実態を語る山田治雄さん=熱海市内の事務所
中国人生存者への聞き取りで、過酷な労働の実態を語る山田治雄さん=熱海市内の事務所
大きな岩塊の中央を切り開き、ここをミョウバン石を満載したトラックが通った
大きな岩塊の中央を切り開き、ここをミョウバン石を満載したトラックが通った
最奥部にはコンクリートの基礎が残り、元従業員の斉藤さんは「何か不明」という。ミョウバン石を搬送するケーブルの基礎との見方もあるが…
最奥部にはコンクリートの基礎が残り、元従業員の斉藤さんは「何か不明」という。ミョウバン石を搬送するケーブルの基礎との見方もあるが…
20代に鉱山で働いた思い出を語る山本あさ子さん=西伊豆町大沢里・祢宜ノ畑の自宅
20代に鉱山で働いた思い出を語る山本あさ子さん=西伊豆町大沢里・祢宜ノ畑の自宅
かつて中国人用の宿舎があったという場所。粗末な長屋ふうで食糧難などでここで毎日のように死んだという
かつて中国人用の宿舎があったという場所。粗末な長屋ふうで食糧難などでここで毎日のように死んだという

 ■死亡率52%は国内最高 宇久須でも14人亡くなる

 西伊豆町にあった戦線鉱業仁科鉱山での中国人の死者は、船舶などの移動中も含め104人で、死亡率は52%(鉱山のみ死亡率46・1%)に上った。戦争終盤、日本に連行され各地の鉱山や土建事業、荷役などに従事させられた中国人は全国135カ所・約3万9千人、死者は6817人(死亡率17・5%)とされる(「中国人強制連行」明石書店刊など)。仁科鉱山の死亡率50%超は国内トップで、それだけ食料事情が悪く、過酷な労働だったようだ。

 1953(昭和28)年には中国人俘虜[ふりょ]殉難者慰霊実行委員会により、人道・平和・友好の精神のもと、日本各地に眠る中国人の遺骨を収集して本国に送り届ける事業がスタートした。本県では殉難者慰霊県東部実行委員会が任務に当たり、翌年には白川の人たちも全面協力し、仁科鉱山関係84人(うち2人は汽車で移動中死亡)の遺骨を収集。一色の法雲寺に集められ慰霊祭を盛大に行った後、秋に本国に送還された。

 この事業に長く携わってきた熱海市議の山田治雄さん(90)によると、本県の中国人の強制労働は仁科鉱山以外にもあり、次のような状況だ。

 ▽西伊豆町宇久須(宇久須鉱業、ミョウバン石採掘、200人のうち14人死亡、遺骨は生存者が持ち帰る)▽浜松市(旧龍山村の日本鉱業峰の沢鉱山、銅の採掘、200人のうち81人死亡、遺骨は53年送還)▽富士市(熊谷組、富士川河川敷の陸軍用飛行場建設、500人のうち52人死亡、遺骨は仁科鉱山の殉難者と一緒に送還)▽静岡市(清水港の荷役作業、200人のうち36人死亡、遺骨は生存者が持ち帰る)▽県内総計1300人中の287人が死亡

 54(昭和29)年にまとめられた県中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の資料によれば、仁科鉱山で亡くなった中国人は全員が河北省の出身で、年齢は18~51歳。死亡原因は栄養不良や大腸炎、強度の神経衰弱、心臓性水腫、脚部凍傷などと記されている。1日に3人亡くなることも珍しくなかった。

 東京華僑総会から山田さんが資料提供を受けた仁科鉱山連行者名簿には200人全員の名前、年齢、出身地、生死などが明記されている。20~30代の若者が多く、労働力となり得る若い人を選んで連れて来たとみられる。最も若い人は17歳だった。

 備考欄に1人「残留」という表記があった。山田さんによれば36歳の唐山市出身の医師で、生存者への聞き取り調査でほとんどの人が「〇〇はどうなった」「どこにいる」と聞いてきたという。同僚の死亡届を書くなどの一方、日本側から食事面などで優遇されていた。このため仲間から反感を買い、報復を恐れ終戦と同時に姿を消したとされ、今も行方は分かっていない。

 ■礼儀正しかった中国人 元従業員の斉藤さん、山本さん語る

 トラックが入られる鉱山最終地点の小高い場所(赤川右岸)に平屋の事務所があった。「遠州から嫁に来た大沢里[おおそうり]・祢宜ノ畑[ねぎのはた]の女性がここで働いていた。私より年上だが、まだ元気だと思う」。元鉱山従業員の斉藤照武さん(90)から情報を得て山本あさ子さん(96)を訪ねた。

 「犬居[いぬい]町(現・浜松市天竜区)から23歳で嫁に来て間もなく、戦線鉱業の前の内田さん(鉱山発見者)が始めた鉱山で働きだした。家から自転車で慰霊碑のある所にあった2階建て事務所まで通った。そこからは作業員と共にトラックの荷台に乗ったり、歩いたりで上の事務所まで行った。道路沿いの崖が怖くて荷台から降りて歩くことも多かった」

 「独身時代は看護婦(師)をしていたが、衛生士としての仕事はほとんどなかった。鉱山は活気があった印象はない。戦線鉱業になってからは朝鮮人が里に下りて来て、雑貨屋をやっていたうちにもよく遊びに来た。家族とも仲良しだった」と振り返った。

 あさ子さんは夫が戦死したため、戦争で負傷して古里に戻り同鉱山で一緒に働いていた4歳年下の夫の弟と後に所帯を持ち、妊娠を契機に中途で退職したという。中国人が連行されて来る前とみられる。

 終戦を迎えると中国人に対する日本政府の対応が一変し、強要状況から解放された。斉藤さんはこういう。

 「終戦後、白川に秋(日本からの送還は11月)まで残った中国人は善い人ばかりだった。この頃は里に下りてくる中国人も多く、わが家にパンを持ってきてくれたこともあったほか、畑で仕事をしていると2人の中国人からミカンを分けてほしいと頼まれた。持っていた紙に互いに文字を書き意思疎通した。最初は怖い感じもしたが、彼らはとても礼儀正しく紳士的だった」。中国人を恐れ雨戸を閉めた家も多かったなか、ほかにも心温まる似たような交流が見られたという。

 強制連行されてから半世紀の節目の1994(平成6)年、西伊豆町長を中心とした実行委員会の招きで70歳を過ぎた中国人2人が、かつて強制労働に従事した白川の地を再訪した。山田治雄さんは「何かやり残しているような気がし、強制連行された人を探し出して西伊豆に招きたい」との思いが膨らんだ。中国紅十字会の協力で13人の生存者名簿が送られてきたが、中国を訪問し一人一人に面会すると4人は死亡していた。生存者の中で訪日希望のあった2人を慰霊の集いに招いた。

 「慰霊の集いの前日、中国人2人、町役場職員らと慰霊碑を訪ねた際、1人の中国人が慰霊碑の前に座り込んで碑を手で何度もなぜながら嗚咽[おえつ]し、立ち上がれなくなった。50年前のつらい日々や次々と死んだ仲間のことを思い出したのだろう。思う存分、涙を流してもらいたいと思った」。山田さんにとって今でも脳裏に焼き付く、忘れられない光景だ。(文・写真 森野宏尚)

 【写説】中国人生存者への聞き取りで、過酷な労働の実態を語る山田治雄さん=熱海市内の事務所

 【写説】大きな岩塊の中央を切り開き、ここをミョウバン石を満載したトラックが通った

 【写説】最奥部にはコンクリートの基礎が残り、元従業員の斉藤さんは「何か不明」という。ミョウバン石を搬送するケーブルの基礎との見方もあるが…

 【写説】20代に鉱山で働いた思い出を語る山本あさ子さん=西伊豆町大沢里・祢宜ノ畑の自宅

 【写説】かつて中国人用の宿舎があったという場所。粗末な長屋ふうで食糧難などでここで毎日のように死んだという

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