熱視線=封印されてきた戦線鉱業仁科鉱山―西伊豆町白川(1)

2017年10月21日

戦時中に仁科鉱山であったことを思い出しながら語る元従業員の斉藤照武さん=西伊豆町大沢里・白川の自宅
戦時中に仁科鉱山であったことを思い出しながら語る元従業員の斉藤照武さん=西伊豆町大沢里・白川の自宅
鉱山での作業や移動中に亡くなった84人の遺体が埋葬されていた墓地跡とみられる場所=西伊豆町大沢里・白川
鉱山での作業や移動中に亡くなった84人の遺体が埋葬されていた墓地跡とみられる場所=西伊豆町大沢里・白川
仁科鉱山に行く途中の道。往時はトラックも往来した道だが、今は崩落し人が通るのも危険だ
仁科鉱山に行く途中の道。往時はトラックも往来した道だが、今は崩落し人が通るのも危険だ
仁科鉱山から採掘されたミョウバン石
仁科鉱山から採掘されたミョウバン石
戦線鉱業仁科鉱山の配置図
戦線鉱業仁科鉱山の配置図

 ■鉱山跡、知る人もなし

 太平洋戦争末期、輸入に頼っていたアルミニウムの原材料・ボーキサイトに代わるミョウバン石を採掘するため、西伊豆町大沢里[おおそうり]・白川地区の戦線鉱業仁科鉱山に中国人178人が強制連行され、うち82人が劣悪な食料事情や強制労働、伝染病などで亡くなった。毎年、殉難者慰霊碑前で「慰霊の集い」が地元町内会によって催され、この地で起きた悲劇は大筋では引き継がれている。だが歴史の舞台となった国有林内にある鉱山跡、民有地内の墓地跡や宿舎跡などを知る人は極めて少ない。70余年の時を経て当時の記憶は徐々に薄れつつあり、わずかに生存する古老に聞き取り調査した情報をもとに、長期間にわり事実上封印されてきた西伊豆の貴重な“戦争遺産”を訪ねた。(文、写真 森野宏尚)

 ■拉致同然に日本へ 中国人82人亡くなる―太平洋戦争末期、ミョウバン石採掘

 最後の生き証人である地元・白川の元町議・斉藤照武さん(90)や祢宜ノ畑[ねぎのはた]の山本あさ子さん(96)に当時の様子を聞いた。斉藤さんは仁科鉱山で17、18歳ごろ働き、「測量や図面引きをやった」という。山本さんは20代のころ主に事務員として働いた。

 同鉱山は斉藤さんの父親のいとこに当たる元賀茂村の鉱山師・内田与作さんが発見した。「家に1週間ぐらい泊まって山の中を探し回った。アルミニウム含有量は宇久須13~15%に対し、白川33%で良質だったと聞いている。埋蔵量はわしらに言わせると無限大ぐらいあった」

 戦争の勝敗を左右するともいわれた飛行機。その原材料が不足した戦争終盤の1943(昭和18)年11月、原材料を国内でまかなうため国を挙げて軍部直属の戦線鉱業(株)が設立された。人手不足からほぼ1年後の44(昭和19)年12月、中国人200人が強制連行され、船で河北省の塘沽[とうこ]を出発し下関に向かい、汽車で沼津に、沼津からは船で西伊豆へ。仁科に到着したのは終戦の年の1月6日だった。

 終戦後、亡くなった中国人の遺骨送還や慰霊碑の建立のほか、帰国した生存者の追跡調査を行うなど、この問題に深く関わってきた熱海市議11期で今も現職の山田治雄さん(90)は「生存者への調査で、日本の憲兵などが来ていきなり車に乗せられるなど、多くの労働者や農民らは人狩り、拉致同然に日本に連れてこられたことが分かった。民間人だけでなく軍人もいたようだ。戦後、強制連行された人が大切に保管してきた所持品の中に、本人の写真と名前が書かれた華人労働従事証が残っていた。後に問題になることを恐れ、形式的に渡されたものだろう」。

 日本に来る途中、栄養失調によって船中で20人が亡くなり水葬されたとされる。だが、実際は「船中では積んだ石炭の上にござを敷いただけの劣悪な環境に置かれ、ものも食べられず精神的にまいって死んだり、反抗して処罰されたり、逃げるために海に飛び込んで死んだりした人もいた」との証言も得た。日本到着後にも車中で栄養失調によって2人が死亡した。斉藤さんは「仁科に到着後、トラックの荷台から2人の遺体の足が出ているのを見た」という。

 最終的に戦線鉱業仁科鉱山に連行された中国人は178人だった。斉藤さんは「中国人以外では日本人の囚人300人、徴用の朝鮮人500人、1カ月ぐらいしかいなかったが浜松高専(現静岡大工学部)と拓殖大の学徒動員各200人、宇久須から雲見まで近在近郷の人たち500人が働いた。この頃の白川の昼間の人口は2500人ぐらいいた(西伊豆町史には6千人と記されるが、そんなにはいなかったという)」と記憶をたどった。

 ■粗末な食事と過酷労働 忘れ去られた宿舎や墓地跡

 中国人は鉱山で表土めくりを行い、朝鮮人を中心に露天掘りで採掘し、日本人は主に運搬を担った。

 斉藤照武さんによれば、中国人と朝鮮人はいざこざを恐れて仕事場を離すなど接触を避けた。だが中国人を見つけた朝鮮人が中国で最大の侮辱とされる言葉を叫び、一歩間違えば一触即発の場面もあった。また近郷から来る人々の中には軍部主導の会社で戦局も思わしくない中、陰で「仕事せんせん株すり会社」と揶揄[やゆ]する声も聞かれ、中国人が生死の境をさまようような状況下に置かれた一方で、要領よく振る舞う日本人の姿も見られたという。

 「慰霊碑と栄橋の中間付近の対岸小高い場所に、杉皮ぶき平屋の中国人向け宿舎が2棟あった。5寸角の木をまくらにし、板の間にわらを敷いただけの粗末の寝床だった、と建てた大工から聞いた。ろくな食べ物がなく、中国人は宿舎で毎日のように死んだ。中国人以外で死者が出た話は聞いていない」

 「中国人は白川に丸太を架けただけの簡単なソリ橋を渡り、鉱山と宿舎を毎日往復した。戦争中に集落で中国人を見たのはほんの一部だった」と斉藤さんは語り、中国人は隔離状態で労働や生活をさせられたようだ。

 仁科鉱山での中国人の強制労働期間は約7カ月と比較的短く、この間に82人もの死者が出たことは、想像を絶する過酷な労働や粗末な食事などが要因だったとみられる。「提供された食事は現在、飼料にもならないような小麦や大豆などのかすのふすまを主体にしたマントウ(まんじゅう)2個ぐらいと聞いている。また宿舎の周囲は先をとがらせた竹を組んで囲い、軍刀を持った軍人か警察官が常に周囲を回って監視していた」。山田さんは戦後、強制連行された中国人から聞いた。

 斉藤さんへの聞き取りで、栄橋のすぐ上流側右岸に修善寺温泉の菊屋旅館を移築した立派な2階建ての日本人幹部の宿舎、栄橋の下流側左岸に炊事場、その下に日本人の囚人と徴用の朝鮮人の宿舎があった。現地調査でも場所が確認でき、栄橋上流の白川沿い右岸を奥へ進み、細い山道を上っていくと今は人工林に変わった2段の平坦地が宿舎跡。さらにその奥に進むと、墓地跡らしき場所も見つかった。

 亡くなった人たちは斉藤さんらによると、仲間によって土葬された。板きれの墓標を立て自然石を置いただけの墓所で、遺骨収集時は大方朽ち果て無くなっていた。一帯は椎の木久保という地名の民有地。訪ねた際は雑木林の中に瓶やさび付いた缶などが無造作に転がり、長い歳月の流れを感じさせた。今では地元でも訪れる人はいない。

 【写説】戦時中に仁科鉱山であったことを思い出しながら語る元従業員の斉藤照武さん=西伊豆町大沢里・白川の自宅

 【写説】鉱山での作業や移動中に亡くなった84人の遺体が埋葬されていた墓地跡とみられる場所=西伊豆町大沢里・白川

 【写説】仁科鉱山に行く途中の道。往時はトラックも往来した道だが、今は崩落し人が通るのも危険だ

 【写説】仁科鉱山から採掘されたミョウバン石

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