華の誇り9(いまを生きる伊豆の芸妓たち)第2章「地方」がいない(3)=桃千代さん 92歳現役、長岡の“宝”

2017年06月29日

民謡の稽古で三味線を弾く桃千代さん=伊豆の国市の伊豆長岡見番
民謡の稽古で三味線を弾く桃千代さん=伊豆の国市の伊豆長岡見番

 伊豆長岡見番の芸妓[げいぎ]衆が“宝”と誇る人がいる。1925(大正14)年生まれ、今年92歳になる桃千代さんだ。戦中・戦後も芸妓として生きた桃千代さんは、今も週に1、2回ほど地方[じかた]としてお座敷に上がる。

 ■9歳で置屋に奉公

 5歳の時に父親を亡くした。9歳で浅草の置屋へ奉公に出たのをはじめに、花柳界を転々とした。三味線との出合いは11歳、柳橋で。芸の「仕込み」で師匠の元へ通ったところ「嫌いじゃなかった」。お姐[ねえ]さんたちの芸を見聴きして覚えた唄を、奉公先で掃除をしながら口ずさむと「お前、なんて年増[としま]みたいな声出すの」と笑われた。

 しかし子どもながらに「なんであっちこっち行かなきゃならないのかな」と感じていた。その時分は知らずにいたが、桃千代さんは家を助けるために当時のお金で1万円もの膨大な借金を負っていた。公務員の初任給が75円の時代だ。

 ■満州・大連へ

 戦前、東京での奉公は牛込神楽坂を最後に、満州・大連へ渡った。「大連ではそれまでよりも好きにできた」という桃千代さんは、望んで三味線の師匠に学ぶ。桃千代さんを嫁にもらいたいと言う人にも出会った。その人は借金を全て返済してくれたが、一緒になることはかなわなかった。

「その方には悪いことをした。毎月1日にはお線香を上げて謝ってる。本当に助けられた。世の中ってのは悪いことばかりじゃないんだと思ったよね」

 ■戦後は横浜から

 大連で終戦を迎え、混乱のなか引き揚げ船に乗った。1銭も持たぬ身だ。「芸妓しかできないからね」。戦後のスタートは横浜の置屋だった。

 その後、熱海へ。しかし生き馬の目を抜くような当時の熱海花柳界の空気に「私の働けるとこじゃない」と感じた桃千代さんは修善寺を経て、夜の温泉街がよりにぎやかだった伊豆長岡にたどり着く。1949(昭和24)年だった。

 「小さなとこだけど、すごいと思った」。当時の見番には10人ほどの師匠が出入りして、芸妓衆が切磋琢磨[せっさたくま]していた。尊敬できるお姐さんとの出会いもあり、伊豆長岡に腰を据え、長唄を主に三味線の道を極めた。

 嫌いじゃない、と進んできた道に喜びを感じている。「お座敷で、あんたみたいに長生きしたいとお客さんが握手を求めてくれる。若い妓[こ]たちもみんなで盛り立ててくれてうれしいよねえ、そりゃ」

 ■「生涯勉強」

 「桃千代姐さんは練習練習の人」「生涯勉強だもんね、本当に真面目」。後輩芸妓たちは異口同音に敬う。「手が固まってしまうから」と今も1日1時間の稽古を自らに課している。

 現役真っただ中の桃千代さんだが、生まれ変わるとしたら男女どちらを選ぶだろう。「考えたことない…。どっちでもいいわ」。芸妓になるだろうか。「女性ならね。やっぱり三味線弾いてこりゃこりゃなんてね」。笑って即答した。

 今、伊豆長岡の温泉場の通りは寂しいと桃千代さんは嘆く。お座敷は少なく、芸妓の廃業・休業が相次いでいる。地方育成のため、伊豆長岡見番では東京から師匠を招き年5回民謡の稽古を行っているが、年々参加者が減っている。

(本社・平田春日記者)

 地方(じかた)…踊り手の「立ち方」に対し、三味線や囃子など音楽を受け持つ人。この連載では特に三味線奏者を指します。

 【写説】民謡の稽古で三味線を弾く桃千代さん=伊豆の国市の伊豆長岡見番

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