伊豆の碑巡り 67/顕彰碑編 7=長谷川〓五郎慰霊碑(伊豆市) 金山再興、産出量2位に(桜井祥行)

2017年04月17日

荒廃した土肥金山を再開発、全国第2位の産金量にまで押し上げた長谷川〓五郎の慰霊碑=伊豆市土肥
荒廃した土肥金山を再開発、全国第2位の産金量にまで押し上げた長谷川〓五郎の慰霊碑=伊豆市土肥
長谷川〓五郎慰霊碑(伊豆市)
長谷川〓五郎慰霊碑(伊豆市)

 西伊豆の土肥金山は伊豆市指定史跡とされているが、観光名所として多くの客でにぎわう場所である。古くから金山開発がされ、1577(天正5)年が最初の採掘と言われ、「龕(がん)付天正金鉱」と命名された坑道が現在も残されている。

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 慶長小判は伊豆金を主体としてつくられたといわれ、江戸初期は大久保長安(1545~1613年)金山奉行のもと土肥を含めた伊豆の金山は隆盛を極めた。

 江戸時代半ば以降は荒廃していたが、1906(明治39)年に長谷川〓五郎(1867~1931年)が再び開発に乗り出したのである。長谷川は神戸の実業家で、その人となりについて碑文には「我国実業界傑出ノ偉材ナリ」と刻まれ、「関西実業界ノ巨壁トシテ一角ニ雄視ス」と続けられている。

 長谷川が金山開発に着手して間もなく金脈が見つかり、第1次世界大戦が始まると、金需要は高まり、金採掘に拍車がかかった。社名も17(大正6)年に土肥金山株式会社とした。大正時代後期には削岩機やダイナマイトを使用して鉱脈を地下100メートル以上まで掘り下げ、ついには産金量全国第2位までに押し上げた。

 土肥金山隆盛の31(昭和6)年に長谷川は逝去するも、金山景気は続いた。亡くなった年の12月に新たな金鉱脈(清越鉱山)が見つかり、慶長年間以来のゴールドラッシュとなったのである。

 その一方で34(昭和9)年2月に土肥金山株式会社の労働者が解雇手当や待遇改善を求めてストライキを行うという通称「もぐら争議」も起きている。もぐら組と呼ばれる争議団が籠城して交渉する中、全山休業宣言が出されるなど、会社と従業員の争議があった。

 その後、アジア・太平洋戦争が展開される中、朝鮮人労働者も増え、土肥金山株式会社は土肥鉱業株式会社と社名変更をする。

 戦後も事業は継続されたが、昭和30年代に経営が悪化し、65(同40)年9月に採掘を中止して閉山した。

 現在は観光施設として土肥金山跡が利用され、これに温泉を加えて町の重要な観光名所となっている。

(県立韮山高校長、伊豆の国市文化財保護審議委員会副会長)

 【写説】荒廃した土肥金山を再開発、全国第2位の産金量にまで押し上げた長谷川〓五郎の慰霊碑=伊豆市土肥

 ※〓は金ヘンに圭

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