天城の寒天 32=列車利用で輸送費は6分の1 テングサ搬入関西から下田へ(小田原短期大教授・中村弘行)

2017年03月12日

小林粂左衛門が使った寒天製造道具。下はところてんを並べる箱、切る道具など。上は釜(茅野市八ケ岳総合博物館蔵)
小林粂左衛門が使った寒天製造道具。下はところてんを並べる箱、切る道具など。上は釜(茅野市八ケ岳総合博物館蔵)

 もう一つのポイントとは、テングサの搬入です。小林粂左衛門が寒天製造を始めた頃は遠く離れた関西からテングサを搬入していましたが、そのうち関東地方から搬入するようになりました。

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 矢崎孟伯「信州寒天工業発達史」には粂左衛門の仲間である白川萬蔵が伊豆と江戸方面へテングサの仕入れに出掛けた道中日記が紹介されています。それによると、萬蔵の足取りはこうです。

 諏訪を出発して、山梨県台ケ原(白州町)に1泊の後、南下して山梨県鰍沢[かじかざわ]に1泊します。鰍沢には富士川が流れています。徳川時代の初期、鰍沢から静岡県の岩淵まで約72キロの船運が開通しました。鰍沢から岩淵へは米が、岩淵から鰍沢へは塩が運ばれ、「下げ米、上げ塩」と呼ばれていました。鰍沢には、全国から物品や文化や風習が入り込んだと言われています。

 例えば、鰍沢に残されているなまこ壁は伊豆松崎から伝わったものでした。船は高瀬舟という小型船でした。下りは川の流れに乗りますが、さかのぼるときは両岸から綱で引っ張っていたため日数がかかりました。

 さて、鰍沢から高瀬船に乗った萬蔵は富士川を下って岩淵に渡り、清水市吉原に1泊、翌日は沼津に出て伊豆長岡古奈、天城湯ケ島と2泊して下田港に到着し、綿屋吉兵衛からテングサを買い入れています。その後萬蔵は江戸に出て三宅島、新島のテングサを買い入れて帰郷しています。

 萬蔵が下田で買い入れたテングサがどのように諏訪に搬入されたかの記録も残っています。荷造りされたテングサは海路清水港に送られ陸揚げ後に岩渕へ、そこから富士川をさかのぼって鰍沢へ出て、鰍沢からは馬で諏訪まで運ばれました。

 この搬入方法は1905(明治38)年の中央線の開通で大きく変わります。テングサは貨物列車で茅野駅に到着するようになり、輸送運賃も6分の1になったと言われています。

 これを機に信州寒天の製造者はさらに増え、明治末には154人に達しました。中央線開通後1年余りたったころの南信日日新聞(現・長野日報)は茅野駅の盛況ぶりを「発送の貨物の大部分は寒天なり」と伝えています。

 本連載の28回目で船坂の寒天が一定期間存続発展したのはテングサの搬入に鉄道と四輪車が使われたためとお話しましたが、信州寒天の場合、船運から鉄道へという輸送手段の向上に加えて輸送コストの大幅削減という大きな幸運に恵まれたことが飛躍的な発展の原動力となったことが分かります。(小田原短期大教授)

 【写説】小林粂左衛門が使った寒天製造道具。下はところてんを並べる箱、切る道具など。上は釜(茅野市八ケ岳総合博物館蔵)

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